think outside the box

たわいもない斜めの視点

走るということ

大人になってから一つの事が長く続いた記憶がない。

【仕事】という面から見れば今の仕事は一度も変えずに続いている。(場所やお店は何回か変えているが)

ことプライベートになると継続して週間付いているものはあまり思いつかない。

読書はほぼ毎日してるけどこれはもう生活の一部のような感覚なので続けているという感覚は薄い。


それがランニングを始めてから一年半程、ほぼ週3.4ペースで走っている。

小さい頃の記憶を紐解くと元々長距離は得意な方で中学生の頃に町の駅伝大会にも出場していた。
走るということに対しての負の感情みたいなものは人より薄かったのかもしれない。

人にはそれぞれのタイプ、適性というものが必ず存在すると思っている。

人によってはランニングを始めても全く楽しみを見出せず続かない人もいるとは思う。

僕も筋トレに関しては何回もチャレンジしているが続く兆しがない。

だがランニングに関してはめんどくさいとかやりたくないという感情が湧いてこない。
よく物事は始めてしまえばやる気が出てくるという話しがある。
これは生体的にそういう構造なのだと思う。

走ることに関してむしろ走りたいのだ。

朝起きた時に天気が良ければ走りたくなる。

仕事が終わってストレスが溜まれば走りたくなる。

新しいシューズを買った日はどんな走り心地なのかワクワクする。

桜の時期、紫陽花の時期、銀杏の時期、元旦の朝。

四季の織りなす様相さえも楽しみに変わる。


僕は改めて何を目的に走っているのか?

それは【快】だ。単純に気持ちいのだ。

走っている最中は普段ぐちゃぐちゃに絡みあっている思考がスッと上に抜けて開放されていくような気持ちになる。

オートメーションで湧き上がる無意識の思考に人は左右されがちだ。

その思考は役に立つものも有れば、大概は役に立たない。進化の過程で人間が培ってきた警報装置は常にサイレンを鳴らしている。

だがその思考と一体化して感情まで飲み込まれると身動きがとれなくなる。


その声が走る事で薄くなっていく。

ずっと並走していたそいつはどんどんと後ろに下がっていく。

そして上書きする様に無の高揚が広がっていく。

「GO WILD」ジョン.レイティ著
には人間の二足歩行は走るためににあると書いてある。

本来の機能を取り戻せた身体はホルモンを通して喜んでいるのかも知れない。


物事を継続するのは難しい。

一年半前に毎朝同じ時間に会っていたあの人達はもうほぼいない。

だからこそ自分が続けられるものを大事にしたいと思う。

継続は力なり