マインドフルネスについて書いてみた
先日投稿したランニングの投稿と同様、もう一つ継続してやっていることがある。
それはマインドフルネス瞑想だ。
瞑想と聞くと少し怪しげなスピ系の想像をする方が多いと思う。
実際に僕もそのイメージがあった、、
心を無にしてチャクラを開き精神世界と繋がる的な、、、
だが始めるに辺り瞑想とはどのようなものかを書籍やネットの情報から学んでいく中で、大まかにいうと瞑想とは心の筋トレのようなものだということを理解した。
その辺について今日は書いてみたいと思う。
僕が瞑想に興味を持ったのが、あるネットの記事だった。
そこには所謂サイコパスと言われている人達の脳波と瞑想を長く続けているチベットの修行僧の脳波が同じという記事だった。
同じと言っても猟奇殺人を犯すようなサイコパス性ではなく、単純に不安や恐怖を感じないということだった。
サイコパスの方々は先天的だが修行僧は後天的に瞑想によってその精神を身につけている。
不安や恐怖を全く感じないのは人間という上では問題があるとは思うが強すぎるのも問題になる。用は程度の問題だろう。
現代社会において強すぎる不安はマイナスに働く事が多い気がする。
ネットで「瞑想」「効果」などで検索するとさまざまなメリットが出てくる。
例えば
- 集中力、記憶力の向上
- ストレス低減
- 不安感の低下
- 感情コントロールの向上
- 免疫の機能向上
など基本脳の機能に直結する内容になっている。
瞑想を実践すると、まず最初に前頭葉と大脳辺縁系で小さな変化が起こり始める。
前頭葉は、主に物事を考えたり判断したりする機能を司る、いわば脳の司令塔のような存在。一方の大脳辺縁系は、扁桃体や海馬などで構成されており、人間の欲求や感情、記憶、自律神経活動などを司る。
瞑想は徐々に海馬の灰白質を増加させ、集中力や記憶力をアップさせる。また、瞑想は扁桃体を縮小させることもわかっている。
扁桃体が大きくなると今まで普通にみて何も感じなかったものに不安や恐怖を感じてしまう。
これは研究でわかっていることで明確に瞑想がただのスピリチュアルではなく研究結果に基づいた方法だということがわかる。
瞑想にも種類があり、【サマタ瞑想】【ヴィパッサナー瞑想】【マインドフルネス瞑想】
などが一般的だと思う。
このうちマインドフルネス瞑想はスティーブジョブスも実践していて近年Googleなども社員に取り入れたことで有名になった。
僕が実践しているのもこのマインドフルネス瞑想で、マインドフルネスとは一言で言うと「今ここに気づくこと」。
自分の思考を評価せず、囚われないでただ観ること。
人の悩みや考えはほぼ過去と未来に起因しているらしい。
あの時〜しておけば、、あの人のあの一言、、
この先どうすれば、、、
思考は反芻を繰り返しぐるぐると右脳と左脳を右往左往する。
だがその思考を『今』にだけ向ければ余計な思考から解放され目の前に起こっていることに集中することができる。
過去の事象は変えれないし、未来は今の一瞬の積み重ねだ。
そして今に集中して未来が良いものになっていけば自ずと過去の記憶だけは有益なものに書き変わっていく。
僕は今この本をベースに瞑想をしている。
ジョン.カバットジンさんというMBSRというマインドフルネス瞑想を最初に提唱した方の本。
毎日大体朝20分、夜寝る前に15分の瞑想をしている。
たぶん瞑想のやり方としてみなさんが思い浮かべるのは座禅を組みひたすらに無になって何も考えないようにする、、みたいな方法だと思う。
僕も最初はそうだと思っていた。
大まかにはそうなのだが、人間何も考えないということはほんとに難しい。
むしろ無理なんではないかと思う。現代社会において普通に仕事していればいくらでも悩みはあるだろうし、ネットからの情報量も多いし、聞いている音楽や、読みかけの本の内容や、さっき食べた夕飯の内容や、週末の予定など無限に思考が湧き起こってくる。
だからますばその思考に気づく事から始める。
スタートは呼吸に集中する。
しばらく呼吸に意識を向けていると、別の所から違う思考が湧いてくる。
そして気づいてあげる。今こんな事考えたなと。
そしたらその思考をそのままにしてまた呼吸に意識を戻す。
そうするとまた違う思考が湧いてくる。
またその思考に気づいてあげて手放し呼吸に意識を戻す。
これをひたすら繰り返す。
最初はこれだけの事が中々辛い。思考に持っていかれず呼吸に意識を戻すのが割と億劫になる。
しっかり気を張っていないと意識を呼吸に戻せず思考と一体化してしまう。
呼吸をしながら全身の力を抜いて、でも意識を持っていかれないように注意を保つという緊張とリラックスのメドローアみたいな状態なのだ。
最初に瞑想とは心の筋トレのようなものと書いたが、まさに注意集中力を鍛えるトレーニングなのだ。
その結果先に書いたような脳の様々な部分が強化されいろいろなメリットを受諾できる。
僕が一年半瞑想を続けて来て一番感じるのは自分を客観的に見るようになった事だ。
いい事も悪いこともその思考とフュージョンせず切り離して考えることが出来る。
毎日仕事していれば当然イライラすることもある。体の状態や気分のバイオリズムは誰にもあることだ。
だが今はイライラしてもイライラしている自分を見ることが出来る。そうすることでそれは意味のない事に気づける。
先に書いたようなサイコパス的思考の領域にはまだ到底及ばない。
そしてそんな事も期待していない。
でもちょっとでも感情のコントロールができて集中力が増し、日々の《今》に焦点を当てる事が出来るならそれは大いにやる意味がある。
今に集中しようというありふれた言葉は実は本質を捉えている。
そして続ける事自体が勝負なのだ。
走るということ
大人になってから一つの事が長く続いた記憶がない。
【仕事】という面から見れば今の仕事は一度も変えずに続いている。(場所やお店は何回か変えているが)
ことプライベートになると継続して週間付いているものはあまり思いつかない。
読書はほぼ毎日してるけどこれはもう生活の一部のような感覚なので続けているという感覚は薄い。
それがランニングを始めてから一年半程、ほぼ週3.4ペースで走っている。
小さい頃の記憶を紐解くと元々長距離は得意な方で中学生の頃に町の駅伝大会にも出場していた。
走るということに対しての負の感情みたいなものは人より薄かったのかもしれない。
人にはそれぞれのタイプ、適性というものが必ず存在すると思っている。
人によってはランニングを始めても全く楽しみを見出せず続かない人もいるとは思う。
僕も筋トレに関しては何回もチャレンジしているが続く兆しがない。
だがランニングに関してはめんどくさいとかやりたくないという感情が湧いてこない。
よく物事は始めてしまえばやる気が出てくるという話しがある。
これは生体的にそういう構造なのだと思う。
走ることに関してむしろ走りたいのだ。
朝起きた時に天気が良ければ走りたくなる。
仕事が終わってストレスが溜まれば走りたくなる。
新しいシューズを買った日はどんな走り心地なのかワクワクする。
桜の時期、紫陽花の時期、銀杏の時期、元旦の朝。
四季の織りなす様相さえも楽しみに変わる。
僕は改めて何を目的に走っているのか?
それは【快】だ。単純に気持ちいのだ。
走っている最中は普段ぐちゃぐちゃに絡みあっている思考がスッと上に抜けて開放されていくような気持ちになる。
オートメーションで湧き上がる無意識の思考に人は左右されがちだ。
その思考は役に立つものも有れば、大概は役に立たない。進化の過程で人間が培ってきた警報装置は常にサイレンを鳴らしている。
だがその思考と一体化して感情まで飲み込まれると身動きがとれなくなる。
その声が走る事で薄くなっていく。
ずっと並走していたそいつはどんどんと後ろに下がっていく。
そして上書きする様に無の高揚が広がっていく。
「GO WILD」ジョン.レイティ著
には人間の二足歩行は走るためににあると書いてある。
本来の機能を取り戻せた身体はホルモンを通して喜んでいるのかも知れない。
物事を継続するのは難しい。
一年半前に毎朝同じ時間に会っていたあの人達はもうほぼいない。
だからこそ自分が続けられるものを大事にしたいと思う。
継続は力なり
【本から読み解く自己遍歴】②
【本から読み解く自己遍歴】① - think outside the box
本を読む最大の理由。それは疑問だ。
なぜ〜なんだろう?どうして〜なんだろう?
世の中には知らない事が溢れている。知的好奇心は日に日に生まれ満たせと囁いてくる。
自分の行動と思考に対して、人の言動と発言に対して、ネットニュースやツイッターに対して、電車内の人や暴れる新成人に対して、成功者と貧困者、モテと非モテ、自由と安定、本音と建て前etc...
数えだしたらキリがないくらい世の中は疑問で溢れている。
この頃からノンフィクションのルポ系を好んで読むようになった。
貧困や裏社会と言った若干ダークサイドよりのものが多かった気がする。
実際に貧困地帯にも行ってみたりしていた。
日本の中で貧困というと三大ドヤ街が有名だと思う。
西成、山谷、寿町。
それぞれ大阪、東京、横浜だが全てを回ってみた。
山谷に関しては近年はそれほど治安も悪くなく、歩いていてもそれほど危険な感じはしなかったが西成、寿町に関しては独特の空気感を感じた。
言葉で表現するのは難しい部分もあるが体感として明らかに行ってみるとその区域に入ったときに空気が変わる。
これは歌舞伎町にいったりした時にも感じる感覚なのだが、なんの仕切りもドアもないのに境界線を跨いだような感覚なのだ。
とは言えすごく危険な訳でもないけど、普通に暮らしていたら味わえない空気な事は間違いない。
この頃は自分でも思うけど知りたい欲求が暴走しすぎていた。
その年のクリスマスに東京で一番クリスマスしていない町はどこなのか知りたくなった。
いろいろ思案した結果【巣鴨】という結果にいたりその時の彼女を連れてクリスマスに巣鴨に向かった。
今思えば完全にイカれているし彼女に心から謝りたい。
予想通り巣鴨はクリスマスのクの字もなく、イルミネーションのイの字もなかった。
目の前で転んだ御老人を周りに歩いていた人達が一斉に助けに行くという世にも優しい世界を目の当たりにしながら巣鴨を後にした。
後日、当時の彼女は僕にこう言った、、
こ、殺されるかと思った、、
僕の訳わからない欲求に連れ回してそれでも文句一つ言わず着いて来てくれた彼女には感謝しかなく、ほんとにいい子だったなと思う。
その時の彼女が今の嫁ですなんてオチも特になくその後お別れしてしまったけど学ぶ事の多かった子でした。
※
その辺りから読書欲がピークを迎え、ビジネス、ノンフィクション、心理学、哲学、サイエンスetc...
常に5冊くらいを並行で読んでいてさらには漫画も読み漁っていた。
友達に飲みに誘われても読みたい本があったらそっちを優先していたし休みの日に満喫にこもってキングダムを1日で1巻から脳のシナプスがもう辞めてくれと頼んでくるまで読んでいた。
僕も人の子なので得た智識を誰かに話したい。
読んで興奮を覚えた部分に関しては翌日に人に話したくなった。
でも、分野がコアになればなるほど興味のある人の絶対数が減っていくの間違いなく、昨日読んだアジアの貧困の話しや人工知能の発展の話しを目をキラキラさせながら聞いてくれる神のような人などそう多くない。
職場の後輩を捕まえてはわけわからんはなしを聞かせ続けるという暴挙にでて、なんとか欲求をコントロールしていた。
しかし、アウトプットが圧倒的にインプットに追い付いてこない。
摂取と消化は一体で次第に消化不良に陥っていく。
驕りや慢心もセットになりただのあたまでっかちが出来上がっていく。
感覚で生きてきたはずなのに理論が先行して本心を偽るようになっていく。
理想と現実的の乖離が始まりかけていた。
理想は高い。智識もある。でも現実は違う。
この頃からだんだん本が読めなくなり始めた。
集中力が長続きしなくなり言葉が入ってこない。
仕事もこの頃フリーランスに転身して前よりも確実に時間の余裕は生まれていた。
時間はあるのに本は読めない。
人間というのは不思議なもので、時間に縛られていた頃は自由を求めるけど自由過ぎると縛られたくなったりする。
フリーランスは全てが自分の裁量で決められる。
怠けようと思えばいくらでも怠けられるし、やろうと思えば24時間働ける。
生活のリズムが狂いに狂っていった。
前の日に飲み過ぎたら午後出勤にしてたし、早く帰れば21時くらいに寝てしまってることもあった。
言葉にすると自由をおおかしている風に見えるけど身体がついてこれなくなっていた。
365日中調子のいい日を数える方が簡単なくらいに、、、
でも仕事は必ずやってくる。テンションが上がらない。でもパフォーマンスは求められる。
朝からモンスターとキューピーコーワを飲み、昼ごはん食べると異常な眠さと怠さが襲ってくるから食べないようにして、血糖値の低下を甘い缶コーヒーで誤魔化して仕事終わりにビールを流し込む。
自分で文字起こししてても相当やばい毎日だったなと思う。
夜は低血糖症状が出ていて手は震えるし、頭が回らなくなってレジ閉めの計算は何回やっても合わなかった。
さらには坐骨神経痛を発症して家から駅まで5分の距離を激痛で休み休みじゃないと歩けなくなり15分かけて歩くという状態になっていた。
側から見た姿はウォーキングデット 。苦悶の表情を浮かべ片足を引きずっている。
一度職場のスタッフが通勤途中に横切って行っ時の関わりたくない感満載の顔は忘れない。
程なくして坐骨神経痛は治ったが、流石にこの状況に焦りを感じ始めていた。
まだこの先何十年も人生は続いていく。仕事も遊びもまだまだパフォーマンスを下げる事はできないし下げたくない。
その為には何が必要なのか?
それは健康だ。
※
この辺りから健康関連の本に興味を持つようになった。
身体は日々食べたもので作られている。親から貰った既存の状態を自分でアップデートしていかなくてはいけない。
正直今まで健康というものに気を使ったことがなかった。自炊はほぼしないし、運動もしない。毎日酒も飲むし、タバコも吸う。
規則正しい生活を送ることがカッコ悪いとさえ思っていた。
当時の元カノにずっと言われていた。
「ほんと顔色悪いよね、、」
体の状態というのはホルモンと関係してメンタルにも影響を及ぼす事もわかってきた。
今までは外部からの刺激で自分を鼓舞してなんとかモチベを保とうとしていた。それは言葉であったり人であったり、情報の中からそれを得ようとしていた。もちろんそれも重要な事には変わりないけど、本来は内側から込み上げてくるものなのだ。
その体内の燃料が枯渇していると情報という予備電源だけではすぐに走り出せなくなってしまう。
人生というマラソンを走り抜けるには資本となる体の構築が必要不可欠なんだという事を改めて知ることになった。
※
そしてそこから派生して今はマインドフルネス関連の本を読み漁っている。
※
何かに行き詰まった時や答えが見つからない時は必ず本が道を示してくれる。
僕は言葉が大好きで言葉に励まされ救われている。
人生で起きる出来事や問題は新しい知識を得るためのチャンスなのかも知れない。
今日も知的好奇心は満たせと囁いてくる。
さて、次はなに読もうかな。
ベゴニアの気づき
2021年も終わりを迎えようとしている。
昨年から今年にかけては例年とは全く違う一年になった人も多いかと思います。
コロナ禍という人生で類をみない異常な状態にさらされ負の側面に踊らされた人も多いのかもしれません。
職業柄いろんな人の話しを聞ける機会が多くあり、ひとえに【コロナ禍】といえどそれを糧に飛躍した人、己の内面を見つめ直した人、ただただ怖がる人、なんとも思ってないけどまわりに同調してる人、、、
人の価値感がわかりやすく浮き彫りになったと感じています。
そんな中で僕は生活や価値観が一変した中の一人です。
昨年の年末に体調とメンタルを崩し今までとは全く異なる一年を過ごしました。(そんなに大事ではないですが)
この詳細については後日またブログかnoteに記したいと思っています。
メンタルを崩したと書くとネガティブな要素を連想させますが、【気づき】はネガティブな中に隠されている場合もあります。
僕はこの一年間でさまざまな事に気付かされました。
自分への忘備録も兼ねて書いていきたいと思います。
- 健康の大事さ
今までは健康というものにまったくといっていい程、気を配っていなかった。
過去に大きな病気をしたこともないし、健康診断も毎年異常なし。自分は特別で無敵なんではないかとすら思っていた。
しかし、そんなに甘くはなく少し体調を崩した事をきっかけに栄養学をかじり始め実践していった結果、日を追うごとに自分が元気になっていくのを感じた。
体調もメンタルも必ず相互作用で働いている。
どちらかが崩れているのにどちらかが上がっているなんてことはないのだ。
睡眠、運動、食事。
身体を大事にする。
それはつまり自分を丁寧に扱っているということ。
- 継続の大事さ
この一年間朝のウォーキングはほぼ毎日、夜のランニングは週3〜4を継続した。
なんでも割と飽き性で3日坊主だっだが、日に日に走れる距離が長くなっていくのと終わった後の爽快感にハマり一日10000歩は確実に歩いていた。
朝と夜にこの予定があると自然と生活リズムが整い日による気分の浮き沈みも少なくなった。
何事も結果をすぐ求めがちだったが、コツコツちょっとでもいいから続ける事の大事さに気づいた。
- テイカーではなくギバーであること
【見返りを求めない】というのは口で言うのは簡単だけど人に何かをしてあげる時に多少の打算はあっていいと思う。でもそれ以上にその人が何をしたら喜んでくれるのかを考えるのが建設的で精神衛生上のメリットも大きい。
人に何かをしてもらうのは当たり前じゃない。
常に感謝をして人に与えられる人間でありたい。
- 家族、友達の大切さを再確認した
コロナ禍で友達に合う機会が減り、その分家族に会う機会が増えた。親、兄妹は近い所に住んでいるけどほぼほぼ会ってなかった。とういうか会おうとしていなかった。
いざと言うとに支えてくれるのはやはり家族でまったく顔を出してなかったにも関わらず、会うと昔のように接してくれる。当たり前の話しなのかも知れないけど、当たり前は本当に支えになる。
友達の存在もそう。普段は普通に遊んでいて気づかないけれど、普通に遊んで会話をして同じ時間を共有する事はすごく意味がある事で、そこからいろんな情報やヒントを得たり、一人でいる時の【楽しい】とだれか共有する【楽しい】は別の感情で人間にとってすごく大事なんだと痛感した。
- 寂しがりやなんだと気づいた
僕は常々寂しいと言う感情がないと人に話していた。実際に1人の時間が好きでよく1人で出掛けるし1人で本もよく読んでいた。
でもこれはいつでも会える人がいるから1人になれるのであってずっと1人でいると寂しさを感じるのだ。
むしろ寂しがりやな自分を認めたくなくてあえて寂しさは感じないと口に出していたのかもしれない。
感情というのは抑え込むと他の部分にも余波がでる。
寂しいや悲しいをあまりに押さえ込もうとすると感度が鈍って楽しい嬉しいも感じずらくなる。
これからは胸を張って言っていきたいと思う。
僕は寂しがりやです。
- 日常の小さい幸せに気づくようになった
今まではドーパミン的な幸せ、刺激とか興奮に楽しみを見出していた。
でもウォーキングやマインドフルネスなども始めてから日常のちょっとした事に楽しさを感じるようになった。
四季の移り変わりによる草花の変化や、食事の美味しさ。
ランニングの爽快感や掃除した後の充実感。
単純に歳とっただけかも知れないけど、セロトニン的な穏やかな日常というものに楽しさを見出すようになった。
お酒に頼らなくても【アガる】事はできるんだと。
※
ピンチはチャンスとはよく言ったもので何か状況が悪くなったとき程、そこから這い上がるための気づきがたくさん用意されているのかなと思います。
総括すると自分を丁寧に扱かうという事を覚えたのかなと思っています。
僕にとってはすごく大事で貴重な一年。
これを糧にまた来年も【楽しい】一年にしたいと心から思っています。
みなさんも健康で
【本から読み解く自己遍歴】①
ここ最近は自分の状態というものを意識している。
根本的な性格や考え方はそう変わるものでもなく、幹ではなくて枝を意識しているいという感じ。
季節や今の環境、会う人によって花の咲き方や枝の伸び方、表情は変わっていく。
僕は基本的な物の影響を受けやすい。
いい言い方をすれば感受性が高いのだと思う。電波は常にwifiだ、。
だから、今まで様々な自分を見てきた。
本から影響を受けることが多く、10代の頃は小説や歴史上の偉人伝などを読み漁っていたが、二十代前半はあまり本を読む時間がなかったので、後半ぐらいから本格的に読み始めた。
その時によく読んでいたのが所謂、【スピリチュアル系】だ。
- 作者: ロンダ・バーン,山川紘矢,山川亜希子,佐野美代子
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当時を思い出すと、まーあれだ、病んでたね。
割と忙し目の職場で、売り上げを上げなきゃいけないプレッシャーと家庭の問題やらで、あまり余裕がなかった。
もともと仏教的な考えが好きだったのもあり、みるみる勘違いスピリチュアル野郎になっていった。
この【ザ、シークレット】に代表される考え方が引き寄せの法則だ。
まずは欲しいものをひたすらに願う。潜在意識の奥底に訴えかける。そうすれば、欲しいものを引き寄せることができると。
病んでいた当時の僕にとっては金言の数々で、生活はまるで修行中の雲水のように質素な生活で、ただひたすらに自分の成功を願っていた。
そう、ただ願うだけ。
当時の僕の様子を元彼女に聞いてみたところこんな感じだった。
「ほんとに気持ちわるかったよ」
しかし、そこから派生して心理学やライフハック系の本も読み始め、今まで何も考えずにただ目の前の事をこなしていた生活から、なんとなく一本の筋が通る。
利他の精神を大事にし、その時の職場ではさながら相談役のような立ち位置になっていて、後輩からは絶対的な支持を集めていた(と勝手に思っている)。
いわゆる、【いい人】だった。
※
デールカーネギーやピータードラッカー、ナポレオンヒル、本田健、神田昌典etc...
などの著名な本。
ユダヤ人大富豪の教え 幸せな金持ちになる17の秘訣 (だいわ文庫)
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次のフェーズに突入した僕は、次第に人ではなくまずは自分を高めなくては!という意識高い系モードに入って行く。
先に書いた職場を卒業し、そのタイミングで【いい人】に矛盾を感じ始めていた。
だれの為のいい人なのだろう?
確かに人にいろんな事を相談されたり、頼られたりするのは嬉しい事ではある。
でも、結局それは他人にいい人と思われたいが故の行動であって本心ではないのではないかと。
それぐらいの時期から、他人の目をあまり気にしないようにした。
クリスマスに一人でケンタッキーでチキンが買えるようになった。
すると自然にいい人ではなくなっていく。自分の意見をしっかりと言えるようになる。
本来の自分というものの構築段階だ。
しかし、弊害もあった。なまじ成功者の本を読み漁っていたために、本を読んでいない人を見下し始めたのだ。
そこで学んだ、新しい小難しい言葉をあえて使い、俺は君たちとは違うんだよ!と身勝手な優越感を感じていた。
その時の様子を元彼女に聞いてみたところこんな感じだった。
「ほんとめんどくさかったよ」
意識は高いが、アウトプットは何もない。
でも、本業の仕事はしっかりやっていたと思うし、それなりに努力はしていた。
自信はあるけど、思うような結果がついてこない。
知識はあるけど、体験がない。
それぐらいから、感じ始めた。
【人は人、自分は自分】
人の成功法則はその人のものであって自分のものではない。
確かに歴史や偉人から学ぶ事は沢山ある。歴史が物語ることや、どういう思考が成功に繋がるのか。それを試算する事は有意義な時間だ。
ただ、それだけでは満たされないなにかがある。
それは自分が何をしたいかだ。
そしてそれを行動に移しているのか。
※
そこで強烈にハマったのが【岡本太郎】だ。
自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間"を捨てられるか (青春文庫)
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世代が若干上なので、リアルタイムでは見ていたようないないような感じではあるが、何かをきっかけに上の書籍を手にとった。
読み始めるとその圧倒的なパワーと熱量に一瞬にして虜にされてしまった。
内側からこみ上げる何かを感じずにはいられなかった。
電車で読んでいる時には、5分に一回ぐらい感銘を受けた言葉に天を仰ぎ、その度に前に立っている人と目が合っていた。
さぞ気持ち悪かっただろう。
そして、勢いに任せて大阪まで太陽の塔を見にいき、向ケ丘遊園にある美術館に足を運び、他の書籍も買い漁った。
この時の僕はさぞ暑苦しかったはすだ。
その時様子を元彼女に聞いてみたところこんな感じだった。
「マジでウザかったよ」
続く、、、
【ナナメの夕暮れ】をみたナナメの思考
- 作者: 若林正恭
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基本的に本を選ぶ時は、その時の気分が反映される事が多いと思う。
何か新しい知見を得ようとしていたり、話題作に興味をそそられたり、本から何か一筋の光明を見出そうとしてみたり、、。
この本【ナナメの夕暮れ】からは僕は完全に共感を求めている。
姉妹作の「社会人大学人見知り学部卒業見込み」が共感の嵐だったからだ。
ダビンチのエッセイから作られているこの本は若林さんの本音と性格と今が読み取れる仕上がりだ。
この本を読んでいると人は人には言えない何かしらの生き辛さを抱えて生きていると思わされる。
なぜ自分は〜なんだろう?どうして今の現状なのだろう?
言語化する事のない矛盾の中で生きていたりする。
例えば僕は二項対立の中で生きている。
- 目立ちたがり屋の人見知り。
- 大雑把な心配性。
- 自意識過剰な自信家。
- 好奇心旺盛な慎重派etc...
矛盾は自分の中で膨れ上がり、一つ一つの質問に自分の中で答えを探していく。
その作業は何年経っても終わる事はない。新しい知識に出会ったり、新しい人と出会い話す事で自分の中の【なぜ?】はオセロのように、白になったり黒に覆ったりしていく。
※
普段の自分の行動や疑問が言語化されているのを見ると、人はハッとなって、まるで占い師に性格や先の未来を言い当てられた時のような、少し晴れやかな気分になったりする。
僕は一人でいるのがあまり寂しくないのだけれど、作中にこんな一文がある。
一人でいても寂しくないのは、自分と話しているからなのだ。
一人あるあるのようで、言葉にすると確かにと共感が生まれる。
上記で書いた【なぜ?】の質疑応答は自分の中で常に白熱しているからだ。
数年前に岡本太郎に熱狂していた時期があった。書籍を読み感化され、大阪まで太陽の塔を見に行った。
【自分の中に毒を持て】というシンプルな他人を気にせず自分のやりたい事を貫け!というメッセージを胸に、人見知りで気いつかいを脱却しようと試みていた。
「社会人大学人見知り学部卒業見込み」にも、この「ナナメの夕暮れにも」岡本太郎の話しがちょくちょく登場する。
この手のタイプの人間が通る道なのか、意識は高く持っている。
人は自分の持っていないものを持っている人に強烈に惹かれる時がある。
それは自分を変えたいという願望が引き寄せる、言葉にすれば憧れに近いものだ。
「社会人大学人見知り学部卒業見込み」では文中からこの憧れに近いものを感じた。
しかし、「ナナメの夕暮れ」では憧れから本来の自分を受け入れて等身大の自分を楽しむ事にシフトしているように感じる。
理想の自分に追いつこうとしているから、今日の自分を生きることはなく、常に未来の理想化された自分を生きている。だから、今日をずっと楽しめなかったんだ。今日じゃないな、今だな、もっと言えばこの一瞬を楽しく生きてこられなかったんだ。「今日の自分は本当の自分じゃない。自分というのはもっと高尚な人間なんだ」と言い訳して。
自分を受け入れるというのは諦めると同意語だと思ってた時期がある。
でも、自分というものを受け入れる事がその先の景色を見る最善の近道だし、心の軽さと同時に「気にしているから、気になる」という状態に気ずく。
歳をとるという事は、覆えようのない圧倒的な真実ではあるけど、【取り方】に関してはいく通りの道があって、肉体的なものや、童心をなくすようなものは嫌だけど、寛容さを手に入れるという年の功は少なくてもいい歳の取り方だ。
今、僕は箱根の天山温泉に来ている。
10年程前に初めて来て以来、二回目だ。
その時はなにもかもが新鮮で、ただただはしゃいでいた。
今日は全ての館内をゆっくりとみて回り、ビールを飲みながらブログを書いている。
これもまたナナメの夕暮れだ。
【ちくわを止めるな】
基本的に食に関して感心が薄いです。
割と何食べても美味しいくせに、好き嫌いはかなり多く、出身が山梨という海なし県だからか、魚介類はほぼ食べられない。
毎日同じものを食べ続けても、そんなに何も感じないし、行列のできるお店などはほぼ行きません。
しかし、人と人の会話の中で食の話しというのは、この夏に暑いですねーというぐらいの頻度で登場する。
すごくポピュラーな会話だ。
その中でも、【一番好きな食べものは?】というパワーワードは、そこから会話を盛り上げようという時に満を持して使うイオナズン級の呪文だ。
僕はこのパーワワードが相手から発せられた時に迷わず、
【ちくわ】ですと答えいる。
初めて飲みに行く女性などにこの答えを言うと、んんー😑そうだよね汗ちくわ美味しいよね(^_^;)(なんだこいつ)と言う地獄の空気になるパターンと、へーちくわ好きなんだね!今度ちくわ料理つくったるわ!と言う、鬼の大人の対応をしてくれるパターンに分かれる。
ちょっと前まではワンタンと答えていたが、最近はちくわがかなりのブームになっている。
ただ言っているだけでは当然なくちくわが大好きなのだ。
そこで、僕には行ってみたいお店があった。【おにやんま】といううどんのお店だ。
(食べログのリンクが貼れない)
ここのちくわ天が絶品という噂はかねがね聞いていた。
普段、周りの人があそこのお店美味しかったよーなどと話しているのには微塵も心を動かされないが、事ちくわ関連に関してはどうも心がときめいてしまう。
しかし、わざわざこれだけを食べにその町へ向かうフットワークの軽さは持ち合わせておらず、朝セブンイレブンで5本入りのちくわを買い、手にはめながら食べることでその欲求をごまかしていた。
しかし、来たるべきしてこの【おにやんま】がある五反田へ向かう用ができ、ついにのれんを跨ぐ日が訪れた。
並んでいたらやめようという意識の低さで、僕は駅を降りその場所へ向う。
時間は午後の2時ぐらいなので、お昼時が終わった今はチャンスだ。
お店の前に到達すると店は満員だが、並んでいない。
迷わず、とり天とちくわ天ぶっかけの食券を購入する。狭い店内はギュウギュウだが、誰もなんの言葉も発せずただがむしゃらに麺を口に運んでいる。
全く清涼感のない滝みてぇだな、心で呟いたと同時に僕の元にもうどんが運ばれてきた。そして、ちくわも。
まずちくわを食べる。
滝沢カレン並みに食レポが下手なので、伝えきれないと思うが、これがうまい。
なんかうまい。
次に麺を食べるとこれもうまい。
なんだろー?なんかうまい。
要するにうまいのだ。
あっという間に完食し、お店を後にする。満たされた脳内の満腹中枢はちくわという好物に出会えた事で喜んでいる。
そして、僕は五反田での用を終え、帰る前にもう一度同じメニューを【おにやんま】で食べて帰った。
それぐらいあれなのだ、なんかうまいのだ。
恙無く飲み込まれて行く、ちくわのお店。
みなさんもぜひに。