think outside the box

たわいもない斜めの視点

常にボケでいられるように

世の中を見渡してみると、世間はボケとツッコミに分かれている。
お笑いで言うところのボケとツッコミではなく、相対的なボケとツッコミ。

通勤の電車内や繁華街、職場や仲間内や旅行先。
至るところにボケている人とツッコんでいる人がいる。
でも、最近は相対的な数字で見るとツッコんでいる人の割合が多い気がする。
世間のニュースは1人のボケに対してみんなが一斉にツッコむ形になっている。
法律や道徳に逆らってしまった人を一様にツッコんで、それを共有する。

僕は常にツッコまれる方でいたいと思っている。(犯罪を犯すという意味ではなく)ボケるというのはある意味自分のやりたい事をやっている姿だと思っている。
よく回りの人に何がしたいの?とか、それは何の意味があるの?とか、何が面白いの?とか言われる事があるが、そこに理由はなくただやりたいからやっている事が多い。

同調や共感を得るのは大事だが、必ずしも理解を得る必要はないのかもしれない。
コメンテーターのように、物事に対して評価を下し、あれこれ意見するのは簡単で、楽しい。そして何故か自分がその人よりも優れているような優越性を感じたりする。
甚だ間違っているその感覚に浸り過ぎると、ボケている人は経験という武器を引っさげて何歩も先へ行ってしまう。

評価基準を自分に設定している人はボケまくっている。仕事においても、娯楽においても人間関係においても。
裸なのだ。総じてそういう人は人間味があって周りに人が多い。
それは図らずもそうなっている。

昔は見た目や、仕事の成功の有無で人に憧れを抱いていた。でも、最近は自分のなりの価値観を形成している人に憧れを覚える。目指しているものの先なのだ。

人にツッコでだけいれば、完璧を手に入れ最悪を手にする。

何もしなければ何も言われないし、何も得られない。


つらつらと書き記した自戒の念。


一億総ツッコミ時代 (星海社新書)

一億総ツッコミ時代 (星海社新書)

《出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと》を読んでみた

今少し話題の本書。


大まかな内容は、元々書店員である著者が出会い系で出会った人達にその人に合った本を勧めていく。
出会い系という響きから連想されるエロ要素はほぼなく、行動をドラスティックに変える事で著者の人生や、取り巻く環境、人間関係などがガラリと変わっていく健全な本。

まず驚かされるのは、著者の発想と行動力。
自分の持っている本の知識を人に広めたい。その人に合った本を紹介したい。

根源のモチベーションは松浦弥太郎などと一緒の様な気もするが、そこで出会い系を選択するのが面白く、確かに効率がいい。

本を人に勧めるのはとても楽しい行為だ。
僕も本が好きなので知人の誕生日や、同類の本好きにプレゼントしたりする。
その人が普段どんな思考で、今がどんな状況で、どのような趣向があるのかを考えながら本を選ぶ。
喜んでもらえているのかは些か不安ではあるが、その人の思考の点と点を結ぶ鍵のようになればなと思っている。



何かを変えたい。


痛烈な思いは行動に転換する。
答えを出して、実行に移すのは自分しかいないが、何かを運んできてくれるのは他人なのかも知れない。
若干人見知りという著者が、出会い系で人に会いまくる事によってある種のマリオのスター状態になり、様々な人が集まるパーティなどでも、気兼ねなく人に話しかけられる状態になっていく。

そう、ゾーンに入っているのだ。

そしてそのゾーンに入ったまま尊敬する会ったこともない書店員にSNSで連絡をとり、京都まで会いにいっている。

様々な種類の人に会い話すことで、自分のやりたい事や今の現状の客観視、先の進み方が明確になっていく。


最近常々思っている。

結局動かなければ何も変わらないのだ。
迷う、考える。それは必要だし、あっていい。でも、その先に動き出さなければ一周回ってまた釈迦の手の平だ。

課題はなんだっていい。
出会い系で70人と会うでも、道端で100人をナンパするでも、ブログを更新するでも、毎日筋トレするでも、毎日必ず本を読むでも。

努力と結果はセットではないけれど、0と1の差は大きい。

そんな気づきを与えてくれる一冊。

正しいか正しくないかではない《安楽死を遂げるまで》書評

安楽死を遂げるまで

安楽死を遂げるまで

注✳︎僕は病んでる訳ではありません。


死をロジカルに語るのは難しい。
死んだ後の事は誰にも聞けないし、死ぬ間際の瞬間どんな気持ちになって、どんな事を考えるのかもわからない。
日本で人が死ぬところを目撃することは、街を歩いていてセブンイレブンを探せないぐらい難しい。
圧倒的に死から離れた生活をしている。

本書を読んだ後、僕は安楽死に対して今まで何を知っていたんだろう?と問いた。
死ぬ時は苦しまずに死にたいっすねーとか、人に迷惑かけたくないっすよねーとか、まだ予想出来ない死の間際を簡単な言葉で吐き出していた。

本書はマルチリンガルの著書が、安楽死や自殺幇助が認められている様々な国に行き、実際に安楽死が行われる現場に立ち会い、その前後の様子や死者の家族にもインタビューを行い、色んな角度からの視点で描かれている。

本書と真っ向から向き合っていくと、かなりの力を消費する。
考える事がありすぎるのだ。
今までの安楽死というもののイメージは、決して簡単ではないとは思ってはいたが、実際よりももっと安易で形式的なものだった。
しかし、そこに関わる自殺幇助の医師や家族、友達、恋人。
理由、場所、時間。
色んなものや思いが複雑に混じり合う。

仮に今親や友人が安楽死をしたいと言ってたきた時に、自分はなんと返答できるのだろうか?
あなたの人生だから好きにすればいいと言えるだろうか?

ある一人の安楽死を選んだ老人の、まだ幼少期の孫に祖父の安楽死についてインタビューする場面が描かれている。
その孫は、死さえも自分自身の選択で決めていいというニュアンスな返答をしていた。

宗教的な考え方の違いもあるとは思うが、圧倒的に死生観が違うのだ。

正しい正しくないの陳腐な答えではなく、もっと深いところの様々なシュミレーションからくる思いや考えが交差して、普段使っていない脳のどこかの部分が、急速に回りだす。


本書を読んで安楽死はありかなしかを考える事はとても意味があることなのだと思う。

音楽チャンプから考える《超一流になるのは才能か?努力か?》

最近ハマってよく見てしまう《音楽チャンプ》という番組がある。
中高生の素人の子達が歌の上手さを競う番組で、毎週チャンプが決定し5周連続で勝ち抜けるかを競い合う。(視聴率が悪い為もうすぐ打ち切りらしい、すげー感動するのに)

この番組を観ていると、いろんな事を考える。
基本的に出ている子はみんな上手い。それゃすごい下手なら自分で応募しないだろうし、番組側もある程度の水準を満たしていないと出演させないとは思う。
各々の出演者が歌い始める前に紹介VTRが入るが、みんな小さい頃から歌手になりたくて練習を重ねていて一日何時間も歌う事に時間を費やしている。
歳も大体同じ世代なので練習時間はそれほど大差がないように思える。

しかし、実際歌を聴いているとテクニックの有無はよくわからないがスッとテレビ画面に吸い込まれて集中して観てしまう子と、途中でスマホをいじりだしたくなってしまう子がいる。
ある1人の子に関しては始まりから釘付けになりちょびっと泣いてしまった。

この違いはなんなんだろう?

超一流になるのは才能か努力か?

超一流になるのは才能か努力か?


こういう議題を話す時に割と二手に別れるのが、才能なのか努力なのかと言う問い。
この本【超一流になるのは才能か努力か?】は色んな実験や研究のデータベースからその問いについての様々な答えを書いてくれている。

どちらかというと才能は努力で作れると言う内容なのだが、よくある自己啓発的な本の、努力は必ず報われるみたいな精神論ではなく、例えば数字の羅列を何桁まで暗記できるのかといった実験結果や暗記方法とその時の脳や体の変化など、しっかりとしたエビデンスの元書かれている。

冒頭の内容で絶対音感などは訓練で作れると言う所ですでに驚いたが、すごいのは人間の適応性である。
例えば何十年も前のオリンピックの記録と現代の記録は歴然とした差が生まれている。
ただ漠然とひたすらに訓練していた頃と、一つの種目で記録を出すためにその部分に特化し研究された訓練方法を実践していくことによって格段に身体能力が向上していく。

色んな能力の向上方法についてが書かれているが、主として限界的練習が挙げられている。
まずは目的をしっかり決める。
自分のコンフォートゾーン(限界)を少しだけはみ出す。
心的イメージをしっかり持つ。
適切なコーチングの元練習する。

スポーツに限らずビジネスや趣味の世界においても目的を設定し、自分に少しだけ負荷をかけるのは能力向上において不可欠な要素だったりする。

僕はどちらかと言えば運命論者で、人は自分の器が決まっていて、その自分の器の中で最大限努力していくの正しい努力だと思っている。
しかし、この本では人間の能力は伸ばそうと思えば思うだけ伸びるという事を示唆してくれている。
僕は世界の名だたる著名人が言ってるような大きな大義名分、世界の人々の暮らしを良くしたいとか、20世紀を代表する会社を作るとか、ディズニーを倒すとか、そんな志しは持っていないけど、ブログをもっと面白く書きたいとか本業のスキルを上げたいとか、女の子をもっと楽しませる会話を身に付けたいぐらいは思っている。
そこには必ず訓練が必要で、トライとエラーを繰り返しながら原因と結果をフィードバックしていかなければならないのだ。

世の中で確固たる地位を築くには当然身体能力の高さ、IQの高さだけではないだろうし、そこには運や生まれや環境など複雑なものが絡み合っていると思う。
でもどんな状況にしろ、どの範囲にしろ自分の持っている能力を伸ばしていくという行為は成長を実感できる自分自身のノンフィクションだ。


そして、そっちの方が人生は楽しい。

中洲の理想と現実

理想と現実の乖離はどこの世界でも日常的に起こる事柄ではあると思う。
何かに動き出す時や、どこかへ出かける時は当たり前の様にその時の情景を連想してウキウキしたりする。

先日、東京の知り合いが地元の福岡に帰省するタイミングで一度は行こうと思っていた九州旅行を敢行した。
東京で仲良くなる人や話しやすいなと感じる人に九州の人が多いなと感じる事が多く、もしかして何かルーツが九州にはあるのではないかという割とこじつけの理論を展開して行く事にした。

旅というのは予想だにしない事が起こるのが常ではあるが、成田空港からのフライトで搭乗口の前の荷物検査で僕の前に並んでいた50歳ぐらいのおじさんがチケットを空港職員に提示した時に、そのチケットの日にちがその日2/21の1カ月後の3/21だったという、絶望的であり結果に全くコミット出来ていない瞬間を目撃した所からこの旅はスタートする。
そのおじさんの飛行機の行き先や乗る理由は想像し得ないが、バカンスでも仕事でも、いろんな理想の中で航空券の日にちを間違えるという第一歩での躓きという現実は予想をはるかに上回る出来事だったに違いない。
千と千尋の釜じいならこういうだろう。
good luckと。


福岡の事前情報として中洲の屋台の話しは色んな人から聞き及んでいた。
夜になると川沿いに屋台が立ち並び、狭い店内に人が並び、隣の席との距離も近い事から人と人の距離も自然に縮まって和気あいあいとした雰囲気の中で酒が飲めると。
色んな想像を巡らしながら、2日目の夜に中洲の屋台に繰り出した。
どこの屋台もかなり混み合っていて、楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
それに呼応してこちらのテンションも上がってくる。
何軒かを見て回り良さげな屋台に入る。
カウンターのみのオーソドックスな作りで、10人ぐらい入れば一杯になる丁度いい規模だ。
僕は明らかに楽しくなっていた。久しぶりの旅という事もあり、屋台の雰囲気も手伝ってテンションは上がっていた。
赤霧島のお湯割りを二杯ほど飲み、何品か串を頼み酔いも適度に回って来ていた。
そこで店主におでんをはどうかと勧められた。その時はおでんの気分ではなかったので、丁寧に断った。一瞬店主の機嫌が悪くなった様な気がしたがあまり気にせずそのまま赤霧島を口に運ぶ。
隣の男性と少し話しをする。最近、名古屋から福岡に転勤で来たらしく、まだ物珍しい屋台によく足を運ぶのだという。
その彼が心理テストをしたいと言ってきた。好きな四文字熟語を答えて、それが今一番自分が大事にしている考えというシンプルなテストだ。
僕らは酒の勢いも手伝い、隣にいた大学生らしき、女の子の4人組にもこの心理テストを始めた。女の子達は嫌がる素振りもなく、一人一人答え始め屋台の中はいくばかの盛り上がりを見せていた。
なるほど、これが屋台か。事前情報をくれたみんなが口々に話していたのはこの感じなんだ。
今日初めて会う人達がその場の雰囲気で盛り上がる。屋台と言う文化に心が踊った。
調子に乗った僕はさっきの女の子とは反対サイドのまたこれも大学生らしき4人組の男の子達に心理テストを始めた。
僕と隣の名古屋からきた男性は、屋台の丁度中心に座っていて右サイドは女の子の4人組で左サイドは男の子の4人組という構図だ。
右サイドは盛り上がって来たので、左サイドも加えて屋台を一つにしようと試みた。
が、、、

そこで店主から予想だにしない言葉が飛び出した。
「ちょっと君さーあんまり周りの人に話しかけないでくれる!」

え?

一瞬ここは学校の授業中かと記憶が交差する。僕は屋台に来ているはずだと。
その店主の一言で右サイドの女の子達は完全にのれんを下げ閉店モードに突入し、ATフィールドを張り始めている。
左の男の子達はみな目を合わす事なく、親の帰りを待つひな鳥の様に色んな方向を向いている。
僕は自分の中で原因と結果について模索し始めた。あのおでんか、いや単純に調子に乗りすぎていたのか、店主も心理テストに混ぜた方がよかったのか、頼んだニラ玉をあんまり食べていなかったからか、、、。
正解は頭の中で右往左往し答えは出ない。
僕は店主にお詫びの気持ちを込めてもう一杯だけ飲んでこの屋台を出ようと思った。最後の赤霧島を頼んだ。
そこでさらなる驚きの言葉が飛び出した。
「もうダメだよ」

え?

僕は一瞬親におやつをおねだりしているのかと記憶が交差した。僕は屋台に来ているはずだと。
まさかの飲酒規制により屋台からの退場が宣告された。
目の前に置かれていた赤霧島のボトルは乾杯の酒からレッドカードに変わっていた。


物事は予想の範囲内で収まっていては味気ない。予想をはるかに上回るから面白いのだ。
何にでも二面性はある。朝と夜、陰と陽。

そして理想と現実。

素晴らしき人生とは《死にたい夜に限って》

死にたい夜にかぎって

死にたい夜にかぎって


本屋にある新刊のコーナーでこの本を見た時の感想はまずこの本はないなと思った。
まず、このパッケージがあまり好きではないし、死にたい夜に限ってという題名も今僕は死にたくないし、爪切男という作者名も嫌悪感を漂わせる。
でも、何故か本屋に行くたびに目に付いてしまいどんな内容なのかを確認してみる為に恐る恐る棚に手を伸ばす。
そして、全体の内容と冒頭の何文かを読んでみる。
最初の何文かを読んでみたときにスーと文書が入って来てもうちょっと読みたいなとおもったら買う事にしている。
その規約に漏れなく引っかかった。

この本の全体的な内容としては、作者が心的な病気を抱える彼女との同棲生活を書いた話しで、下ネタが多く人によっては不快な気分になる箇所もあると思う。
この本を一言で表すなら【ジワる】。
ジワるという表現は笑いという意味合いで使われる事が多いが、笑いにしろ少しの感動にしろ切なさにしろ、水の中にインクを落とした時の様なジワっと感が広がる。
暗喩や直喩の使い方や表現の仕方が面白く、割と下衆な話しの内容にも関わらず全体的に温かみがある。

病気持ちの彼女との同棲生活を軸に作者が今まで出会ってきた女性の遍歴が描かれているが、その女性達が中々の物で、唾を売りながら生活する彼女、テレクラで出会った188センチのデイダラボッチ、童貞を捨てた時の車イスの女性、信仰宗教家のヤリマンや、初恋の相手は自転車泥棒などボリュームとしてはかなりのものである。

往々にして変な人と出会いやすいという人種は割と多くて、僕もその類の人種に入る気がする。
僕が今まで出会って来た女性達も一風変わった人も多く、ブルー将軍を殺す時のタオパイパイのごとく耳に舌を突っ込んでくる女性や、自分の姉のまだ2歳ぐらいの子供を誘拐して散々連れ回した挙句、姉の自宅から2時間はかかる僕の自宅まで連れてきて、理由を聞くと姉の子供を僕に見せたかったと話す彼女(この後、姉の地元では大捜索が行われ、半狂乱のお姉さんから電話がかかってきて、事情を説明し彼女にお金を渡してタクシーで帰らせた)や、深夜に窓を少しだけ開けて音楽を聴いていたら外から、
すいませんーすいませ〜んという声がするので恐る恐る窓の外を見てみると、そこには1人の女性が立ってこっちをみている。
どうしましたー?
と声をかけると、今流れてる音楽私も好きなんですという。(ちなみに僕の家は一階です)
心の中で知らんがな!と呟いたが、時刻は深夜の2時だし得体が知れなさすぎるこの女性を穏便に返そうと思い割と優しく接していると、何故か彼女は柵を越え僕の家のベランダの前まで近づいてくる。
このままちょっと寄ってっていいですか?と言わんばかりの表情をしている。
さすがに怖くなり明日早いんでという理由で帰ることを促した。
近くに住んでいると言っていた彼女には2度と出くわしていない。


世の中の平凡や普通の概念は時代や流行で変わるし、おもしろいや不幸の感じ方も完全なる主観になるのだが、物の見方によって全てが変わるのなら僕は全てをおもしろいと思っていたいし、楽しんで生きていたい。
この作者の様に決して他人が聞いたらいいとは思えない事柄も面白おかしく捉えればそれは作品になったりする。
マーブル模様の人生は白が多いに越したことはない。

こんなブログを描いていたら、今朝方家の給湯器が壊れて、一週間お風呂に入れなくなった。この一週間をどう捉えて乗り切るのか。

僕は今試されている。





インスタには映らない世界《ルポ川崎》

最近一つ論考している議題がある。
環境はどれくらい人に影響を及ぼすのか。


日本は世界から見たら相当安全な国で1人で夜出歩いても何もないし、電車でへべれけで寝てても何も盗まれないし、ピアスを盗む為に耳ごと切っちゃうなんて事件もまずない。
そんな中でも比較的治安が悪いとされる地区は存在する。有名なのは、三大ドヤ街と言われる、【東京山谷】や【横浜寿町】そして【大阪西成】。
他にも調べると色々な場所がでてくるが、関東近郊だとこの川崎の名が上がる。
この本はBAD HOPという川崎に根付いたラップグループなどの証言やインタビューを元にリアルな川崎を描いたルポルタージュである。

僕も何度か川崎には行ったことがあるが、川崎大師や川崎駅前付近などは歩いていてもそれほど危険な感じはしない。
ヨハネスブルグやサンペドロスーラの類の1日に何件も殺人ご起きるような場所ではないにしろ、雰囲気は割と平穏としている。しかし、堀之内などの風俗街へ行けばまた雰囲気は変わるだろうし、工業地帯付近の住宅街や団地などは、特異な雰囲気を醸し出しているのかも知れない。
ここで紹介されているBAD HOPのメンバーや登場する人物のほとんどは片親だ。中には母親が3人いるとか腹違いの兄弟が何人かいるのがザラだ。他にもフィリピンや朝鮮とのハーフなどもいる。
川崎は戦前から臨海部の工業地帯で働く為に朝鮮半島アジア諸国から人が移り住んで来た経緯があり、在日の人口も非常に多い。そのため、そういった街を狙い打ちするヘイトデモも多い。

片親というと、どうしても家庭は貧困に陥りがちで、親もいなくお金もないと子供はどうしても非行や犯罪に走る。
育つ環境が与える影響は大きくて、周りにヤンキーが多ければ必然的にヤンキーになる奴は増えるし、エスカレーター式にヤクザまで行ってしまうものも少なくない。
なぜなら、それが一番お金が稼げるからだ。
もしくは、有り余る体力や溜まっていく憤りや世の中への不満を爆発させる手段なのかも知れない。

しかし、このBAD HOPの登場とフリースタイルダンジョンや高校生RAP選手権に代表されるラップブームや、90sの流行りによるスケーボーなどのサブカルチャーリバイバルブームで川崎の不良達にも変化が起きている。
今までのように有り余った体力の使い道が暴力や犯罪ではなく、音楽やカルチャーに向いているのだ。
ここに書いてある事が全ての人に当てはまる訳では当然ないし、王道のパターンを上り詰める奴も存在するとは思う。
でも少なからず、今までとは違う形の生というものの提示が示されディストピアからの離反が起こっている。

人は環境というものに左右され作用される。どこで生まれて誰に育てられて。
自分では選択出来ない事柄を背負って育っていく。
進む右手とそれを制す左手の中で矛盾を胸に日々を過ごす。

インスタには映らないものがそこにはある。