直感とロジックのあいだ
前回のこの記事から数週間が経ち、やっと新居が確定しました。
来週引っ越しです。
突発的に決めた内容の中には、少なからず直感というものが働いていると思う。
なんとなく今日はこれがしたい、この時期はこれをした方がいい気がする。
逆になんとなくこれはやりたくない、やらないほうがいい。
何かをするという行動的な指針以外にも、この街や土地は好き、この電車の路線はなんとなく気分が良いなどの触覚的なものもある。
昔から人生で人が必ず体験する選択の時期、進路や就職先、暮らす場所などで迷った記憶があまりない。
そこには直感が働いていてここが良い気がする、ここは受かりそうな気がする。
あまり何も考えずに、思い付きに似た感覚で決めていた。
結果的にそれで後悔した事もあまりない。(ちょっとある)
しかし、30歳を過ぎてから迷うという事が増えてきた。
人間30年も生きていると様々な知識や経験から来る思考が混じりだす。
左脳よりの論理的思考が入りだす。
今は情報過多時代で、スマホを開けば色んな情報が目に飛び込んでくる。
基本的に情報ジャンキーなとこがあり、時間が空けば常に何かしらの情報に触れている。
今までのような、なんとなくで決めてい
た事柄をよく分析し裏とって決めるという手順になっている。
それは少なからず失敗したくないという恐れの感情や人の目という常識の概念、物事の二面性の陰の部分に焦点を当てた見方になっている気する。
「勉強の哲学」千葉雅也著によると、勉強する(知識が増える)事はノリが悪くなることと書いている。
色んな物事に関することを一度立ち止まって考える癖がつくとレスポンスが悪くなる。
いわゆる頭でっかち。
昔の無知な自分にはそういう余計な詮索がなくやりたいと思うことをやれていた気がする。
自分の中に知識が増えていくのはとても楽しい事だし、好奇心というものがなくならない限りは際限なく新しい情報は入ってくる。
そして、生きているうちはこちらも際限なく常に何かを選択していかなければならない。
細かい事を言えばその日何を着て何を食べてどこへ行って誰と会ってコーヒー何杯飲んでどこのセブンイレブン行って。
もっと大きな転職、結婚、引っ越し。
そういった日々の選択の中で日常は彩られ自分を構成している。
今のところ情報を遮断するという選択肢はない。もっと色んな事が知りたいし、色んな本に出会いたい。
でも、ロジカルな考え方をしていても直感にも従う。
右脳と左脳のやり取りをどちらかに偏るのではなく冷静なジャッジで判断していけば迷いや後悔も少なくなるはず。
これからも第一欲求に逆らわず。